神埼市、神埼郡吉野ヶ里町にまたがる吉野ケ里丘陵では、「県東部工業団地」の造成に伴い、1986年(昭和61年)から埋蔵文化財の本格的な発掘調査が始まった。一帯では既に戦前から戦後を通じ、畑地開墾や小規模開発に伴う調査などで弥生時代の貴重な遺物が多数出土しており、研究者の注目を集めていた。
本格調査が始まると、88年(昭和63年)までに外環壕(かんごう)やさらに内壕に囲まれた区域、物見櫓(ものみやぐら)などを確認。大規模環壕集落の全容をほぼつかんだ。
調査が続いていた89年(平成元年)2月には新聞、テレビが「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝の記述と符号」と全国に大々的に報道。“吉野ケ里フィーバー”が始まり、報道から最初の土・日曜日は遺跡見学に計1万人近くが訪れた。発掘調査が継続中で、その後も貴重な発見が相次いだため、5月の連休までの一般公開で約105万人が訪れた。
中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は、「邪馬台国」をはじめ弥生時代後期(紀元3世紀)の日本列島(倭)の政治、社会、風俗などの様子を漢字約2000字で記す。
邪馬台国の女王・卑弥呼がいた所は、いわゆる3点セットの「宮室、楼観(ろうかん)、城柵(じょうさく)を厳かに設け…」と記しており、吉野ケ里遺跡で確認された「主祭殿、物見櫓、環壕(城柵)」が、その記述と符号し、邪馬台国の姿をほうふつとさせる遺跡として注目を浴びた。
「九州説」「近畿説」など「魏志倭人伝」が記す邪馬台国の所在地論争は江戸時代から続いており、「日本考古学最大のなぞ」として今なお高い関心を集めている。
吉野ケ里遺跡は「邪馬台国時代」を含め、弥生時代前期(紀元前3世紀―前2世紀)から後期(紀元1―3世紀)まで約600年間の移り変わりを知ることができる。前期の分散的なムラの誕生や環壕を持った集落の出現から、後期になると国内最大規模の環壕集落に発展した。
環壕集落の発展はもちろん、吉野ケ里遺跡をはじめ弥生時代に大きな社会変革をもたらしたのが水田稲作農耕の開始。中国大陸、朝鮮半島から伝わったとされ、それまでの狩猟・採集中心の社会から、食料生産が始まったことで人口が増え、土地争いや水争い、貧富や身分の差、政治的な権力が生まれた。
吉野ケ里遺跡では、水路やあぜ道遺構など明確な水田跡は見つかっていないが、鍬(くわ)や鋤(すき)、えぶりなどの農具が出土。このほか炭化米、稲の花粉やプラント・オパール(植物のガラス質成分)が大量に検出され、水田稲作農耕が営まれたとみられる。
吉野ケ里遺跡の集落の発展の経緯をたどると、弥生時代前期の環壕集落は遺跡南部の丘陵で確認され、規模は約2.5ヘクタールと推定されている。丘陵の南端では、さらに古い弥生時代初頭の壕の一部も確認された。
弥生時代中期になると、環壕集落は南部の丘陵全部を囲む区域になり、規模は約20ヘクタールに拡大。環壕内では居住域や倉庫域も区別されていた。
弥生時代後期には丘陵北側に拡大し、国内最大規模の環壕集落に発展。南北は約1000メートル、東西は約600メートルで規模は約40ヘクタールあり、環壕の内側にはさらに環壕に囲まれた祭政の中枢の北内郭(ないかく)、王や支配者層が居住した南内郭などがあり、クニの中心集落へと発展した。
環壕はV字型をしており、弥生時代後期では幅が平均約6メートル、深さは約3メートルあった。環壕の外側には土塁を盛り、先端がとがった杭(くい)などを立てていたと考えられている。枝のついた逆茂木(さかもぎ)を立てた場所もあったとみられ、敵の侵入を防ぐ機能はより堅固になった。
その後、環壕は紀元3世紀後半ごろに埋まり、集落としての機能が失われた。このころ南内郭付近の丘陵に4基の前方後方墳が相次いで構築され、続いて数基の方形周溝墓が造られ、吉野ケ里丘陵は墳墓として利用されるようになった。
弥生時代中期、吉野ケ里遺跡に北墳丘墓が造営された。大きさは南北約40メートル、東西約27メートル、高さ4.5メートル以上と推定され、国内最大級の規模。違う種類の土を何層にもつき固めた「版築」状の技法で築かれている。
1989年(平成元年)と92年(同4年)の調査で14基の甕棺(かめかん)が確認され、埋葬されていたのはすべて成人だった。甕棺からは把頭飾(はとうかざり)付き有柄細形銅剣など銅剣8本、ガラス製管玉が計79個出土した。
すべて成人であることや銅剣、管玉など副葬品も高い身分だったことを示すため、被葬者は「歴代の王(首長)」とみられている。
ガラス製管玉はコバルトブルー、ライトブルー、白色とコバルトブルーの縞(しま)模様など3種類あり、高度な技術をうかがわせる。
北墳丘墓とは別に、吉野ケ里遺跡で確認された弥生時代前期末からの甕棺墓の総数は約3100基。弥生時代中期になると、それまで分散していた墓地が環壕集落外の北側に数カ所の列状となり、最も長いもので約600メートルに及ぶ。
甕棺墓から見つかった人骨は300体以上で、この中には全身のうち頭部だけがない人骨もあった。他の骨にあった傷の状態から、戦闘で死亡した後に頭部を取り去られたと推測されている。12本の矢を撃ち込まれた人骨もあり、「のどかな田園風景」という弥生時代のイメージを一変させた。
出土した人骨から推定される成人男性の身長は162.4センチで、“吉野ケ里人”は同時期の東日本などの弥生人や縄文人より身長が高く、渡来系とみられる。弥生人は渡来系と縄文系に分けられ、身体的特徴は、渡来系が「長身、面長、一重まぶた」で縄文系は「背が低く丸顔、二重まぶた」とされる。
弥生時代後期、一帯はクニの中心として発展し、外環壕の内部にさらに環壕で囲んだ2つの内郭を設けた。
「北内郭」は二重の環壕に囲まれ、1カ所の出入り口は、二重の環壕を左右にずらして鍵(かぎ)形に曲がる特殊な構造となっている。
環壕を外側に突出させた4カ所に物見櫓が建ち、16本の柱で12.5メートル四方の巨大な建物の「主祭殿」があった。北内郭は主に祭祀(さいし)儀礼を執り行っていたとみられ、銅戈(どうか)など祭祀遺物も出土した。
「南内郭」には環壕や城柵に囲まれた竪穴住居群があり、王や支配者層が住んでいたとみられる。環壕の出入り口は2カ所あり、“正門”の方の両側に物見櫓が建っていた。兵士が立っていたとみられる「櫓門(やぐらもん)」もあり、厳重な見張りがなされていた。
吉野ケ里を中心とするクニを構成していた集落は「衛星集落」といわれ、周辺に点在する松原遺跡や松葉遺跡、一本谷遺跡などが挙げられる。クニの「最高首長」はこれら衛星集落の首長の間で選ばれ、吉野ケ里に赴いたとも考えられている。
吉野ケ里遺跡をはじめ弥生時代を代表する磨製石器の石包丁は、刃の部分の調査では稲に含まれる脂肪分だけしか確認されず、稲の穂先を摘み取る専用の道具だった。
この稲作のほか、日本列島には大陸や朝鮮半島から新たな技術が多く伝わり、そのうちの一つの青銅器の生産は、佐賀平野で始まったとされる。
吉野ケ里遺跡では弥生時代前期の環壕から、国内最古の鞴(ふいご)の先端が見つかった。風を送って燃焼を促す道具で、溶けた銅をくみ出すための取瓶(とりべ)も出土し、青銅器生産の始まりは弥生時代前期にまでさかのぼる。
弥生時代中期になると、石材の両面に銅剣や銅矛の型を彫った「鋳型」も多数見つかった。朝鮮系無文土器が同時に出土するため、青銅器鋳造は朝鮮半島からの渡来人がかかわったとみられる。
鉄製品の使用は弥生時代中期前半から始まるが、後期に入って普及した。吉野ケ里遺跡で確認されたのは約180点で、斧や鎌、鋤先、ノミなど農工具のほか、剣や矛(ほこ)、鏃(やじり)などの武器類も確認されている。
木製品は丘陵西側の低地を中心に出土した。鋤や鋤、臼(うす)、杵(きね)などの農工具、ネズミ返しなどの建築部材、容器のほか、剣や戈の形をした祭祀具など約220点が見つかっている。
北墳丘墓から約500メートル北側では1998年(平成10年)、銅鐸(どうたく)の本体が見つかった。銅鐸鋳型は安永田遺跡(鳥栖市)などで出土していたが、本体が出土したのは九州で初めて。近畿が「銅鐸文化圏」とする説に一石を投じ、九州でも銅鐸を用いた祭祀が行われていたことが明らかになった。その後、同じ鋳型でつくった銅鐸が島根・出雲にあることも分かった。
吉野ケ里遺跡の甕棺墓からは、大型の巻貝で作った腕輪が多数見つかった。腕輪は奄美大島から沖縄のサンゴ礁域に生息するゴホウラ、イモガイを加工して作られていた。
弥生時代中期の甕棺墓列の1基からは、中国製の銅鏡とともに、両腕に36個の貝輪をつけた女性の人骨も見つかった。一つの甕棺墓からの確認例では国内3番目の多さ。腕輪はイモガイ製で、右腕に25個、左腕に11個つけていた。被葬者は特別な身分の「女性司祭者」とみられている。
また装身具としては、弥生時代中期の竪穴住居跡から青銅製のリング(直径約2.6センチ)一対も出土。イヤリングか指輪と推定されている。
弥生時代中期から後期初めの10基以上の甕棺からは、絹織物が出土した。絹糸は日本産で、織り方は数種類あり、現在と同じ方法で縫い合わされた布片もあった。科学分析の結果、絹布の中には貝紫や日本茜(あかね)で染められていたものがあった。
吉野ケ里遺跡は、全国的に注目された翌年の1990年(平成2年)に国史跡、そして91年(同3年)に国特別史跡に指定された。指定区域は約22ヘクタールで、このほか県史跡にも約28ヘクタールが指定されている。
国営公園化が閣議決定されたのは1992年(同4年)10月。国営の「歴史公園」として整備されるのは、奈良県明日香村の「国営飛鳥歴史公園」に次いで2カ所目となった。
国営公園は全国17カ所に整備されており、設置規定2区分のうち、吉野ケ里遺跡は「わが国固有の文化的資産を保存活用するために設置」された。
国営と県営を合わせた吉野ケ里歴史公園の総面積は約117ヘクタールで、内訳は国営が約54ヘクタール、県営が約63ヘクタール。国営区域を取り囲む形の県営区域は、周辺との自然景観に配慮した整備をしている。
吉野ケ里歴史公園整備の基本テーマは「弥生人の声が聞こえる」とし、基本理念には「弥生時代を体感できる場を創出する」などを掲げた。さらに「日本はもとより世界への情報発信の拠点」をうたう。
方針では整備区域を「入口ゾーン」「環壕集落ゾーン」「古代の森ゾーン」「古代の原ゾーン」の大きく4つのゾーンに分けている。
県営区域がほとんどの「古代の原ゾーン」は、環壕集落の西側に位置し、水田遺構や出土した種子、花粉から推定した弥生の草地風景を再現した。水田では稲作体験ができ、草地の大芝生広場は遊具や四季折々の花も楽しめる。
吉野ケ里歴史公園の復元整備では、遺跡を保存し傷つけないために遺構に盛土をしている。竪穴住居や掘立柱建物などは遺構面より30センチ以上の盛土をした上に柱を建て、環壕は遺構底部から50センチ以上の盛土をして、往時の深さ、幅を復元している。
吉野ケ里遺跡は時代とともに変遷をたどっているため、復元整備の対象の時期は、クニの中枢として機能し、最も栄えた弥生時代後期の姿が中心。紀元3世紀ごろの大規模な外環壕や集落でも特別な空間だった北内郭、南内郭などを復元した。
吉野ケ里遺跡を復元整備した歴史公園は2001年(平成13年)にオープンした。全体の計画面積約117ヘクタールのうち、第1期として約47ヘクタール分(国営16ヘクタール、県営31ヘクタール)が開園。主祭殿や物見櫓などがある北内郭をはじめ環壕、城柵などを整備した。
北内郭には物見櫓4棟や主祭殿、斎堂、最高司祭者の住まいとみられる高床住居などを整備した。物見櫓は見張りの役割のほか、四方を祀(まつ)る意味もあったと考えられている。
大型建物の主祭殿は3層からなり、高さ16.5メートルの建物を復元。3階には祖先の霊のお告げを聞く最高司祭者、2階にはクニの重要事項を論議する支配者層を人形で再現している。
主祭殿近くには、正方形のような特殊な形をした高床住居があり、最高司祭者が住んでいた。ふだんは人前に姿を見せないため、1階部分も網代で囲い、閉鎖的な空間にしていたとみられる。
北内郭には、夏至の「日の出」と冬至の「日の入り」を結ぶ線上に東祭殿も建てられていた。太陽の動きを知るための建物で、季節ごとの祭りが執り行われていたと考えられている。
北内郭の近くの「中のムラ」は、北内郭で行われる祭りや儀式、政事に使うものを司祭者たちが作っていた場所と考えられている。このため「養蚕」「糸紡ぎと機織り」「祭器づくり」と「酒造り」の様子が分かる建物を整備している。
歴史公園オープンから1年後のアンケート調査では、「非常に満足」「まあまあ満足」と答えた来園者は計83%。「満足」した理由は「広々としてのんびりできる」「子どもが喜んで遊べる」などだった。一方「やや不満」「非常に不満」は計5%で、理由は「広くて歩くのが大変」などだった。このため02年(同14年)7月から無料シルバーカー(電気自動車)を運行している。
海外との交易品や列島各地のクニの品々が集まった場所とされる「倉と市」は、2004年(平成16年)4月に開園した。
整備前の調査では、倉庫以外の機能を持った可能性がある大型建物跡が見つかり、倉庫や市を管理した建物「市楼(しろう)」を復元した。当時の中国の城郭都市には「市楼」が存在したとされ、記録などに残されている。
また、調査では弥生時代後期後半から終末期にかけ、約100棟の高床倉庫とみられる建物跡が確認された。時期を追って2―3回、建て替えられたとみられ、同時に建っていたのは20数棟と考えられている。
「倉と市」には重要物資保管の場、海外との高級品取引の場などのほか、裁判などの場も整備した。「生口(せいこう)」と呼ばれる奴隷層の取引や裁判をした場所とされている。
王や支配者層が居住していたとされる「南内郭」は2005年(平成17年)4月にオープンし、物見櫓4棟を含め竪穴住居など計20棟を復元した。環壕と城柵で囲まれ、厳重な見張りの中で一帯の中心に竪穴住居があり、一部の有力者しか持てない鉄製品も多く見つかっている。
竪穴住居のわきには、発掘調査で小型の掘立柱建物跡が数棟見つかり、共同の煮炊きを行う場所だった「煮炊屋」を復元した。復元整備には、調理器具の支脚が竪穴住居の屋外で多く見つかっていることも参考にした。
南内郭の北西の環壕の外では、環壕の中にある他の竪穴建物とは構造が違う建物跡が見つかった。このため「倉と市」へ通じる門付近を警護した建物とみて「兵士の詰所」を整備した。
2007年(平成19年)10月に「南のムラ」がオープンした。一帯を囲む壕などの特別な施設がなく、竪穴住居3―4棟に対して共同の高床倉庫が1棟ある一般的な集落構造となっているため、「下戸」と呼ばれる一般の人々が住んでいたとみられる。北が「上位」で南が「下位」という古代中国の考え方にも基づく。
竪穴住居15棟をはじめ高床倉庫など計27棟を復元。周辺には田畑が広がり、米やアワ、ソバ、豆類のほか桑などを植え、庶民の生活の場を再現している。
南のムラ開園と同時に、新しい体験プログラムも導入した。それまであった勾玉(まがたま)や土笛づくり、火おこしに加え、新たに布つくり、丸木舟づくり、楽器製作と演奏、舞いの稽古など4つのプログラムを組んだ。
「弥生のなりきりプログラム」で参加者をサポートするボランティアは「キャスト」と呼ばれ、参加者とともに貫頭衣を着て指導や手助けをする。
人気がある勾玉づくりは、材料の違いで2コースあり、柔らかくて削りやすい高蝋(こうろう)石を材料に使えば出来上がりまで約1時間。もう一つのコースは2時間程度をかけ、より本格的に石鹸(せっけん)石を使う。
また土笛づくりでは、粘土を丸めて中を空洞にし、吹き穴に加えて表面4カ所、裏面2カ所の計7カ所に穴をあけて出来上がり。土笛は縄文時代や弥生時代の遺跡から出土し、楽器として使われたと考えられており、素朴な音色が楽しめる。
南のムラには、体験学習施設「弥生くらし館」を整備しており、200人収容の体験工房や休憩ルームなどを備え、雨天時にも体験プログラムができる。
「北墳丘墓」は2008年(平成20年)2月に公開が始まり、歴史公園内で初めて実物の遺構、甕棺などを展示している。89年(平成元年)と92年(同4年)に調査した後、93年(同5年)3月に埋め戻しており、今回15年ぶりの公開となった。コンクリートや盛り土、芝生の覆屋で外観を復元し、内部は再発掘して遺構面を露出させた。
調査時に取り出していた甕棺は、破片を修復して埋め戻した。甕棺を2個組み合わせて遺体を埋葬する方法で、甕棺2個分の長さは約2.5メートルにもなり、他の区域の甕棺の2メートル強よりひと回り大きい。
埋葬の工程は、まず墳丘の表土から2メートルぐらいの穴を掘る。その穴に横穴を掘って甕棺を据え、遺体を収めた後、もう一つの甕棺でふたをし、粘土で継ぎ目をふさいだとみられる。
遺構面は劣化を防ぐため薬剤で保存処理したほか、湿度を80―90%に設定。見学コースの回廊部分と遺構面とは別々の空調方式を導入しており、回廊はエアコン、遺構面は加湿(除湿)器で制御している。
北墳丘墓は埋葬の役割を終えた後、先祖の霊をまつる祭祀空間となった。南側には墓道があり、ここから筒型器台や高坏(たかつき)など祭祀用土器が多数出土。先祖の霊が宿る宗教的シンボルと考えられている立柱も復元した。
北墳丘墓を北の基点にすると、北から南へ一直線上に祀堂、北内郭の主祭殿、南の祭壇が並ぶ。直線は「聖なる軸線」とされ、直線の先には雲仙岳がそびえる。弥生時代中期の北墳丘墓が、後々の弥生時代後期までクニの社会基盤を構成する重要な施設だったことがうかがえる。
吉野ケ里歴史公園の最北部の「古代の森ゾーン」は2008年度(平成20年度)から本格的な整備に着手する。弥生時代の森のほか、甕棺墓列の再現なども計画している。
甕棺による埋葬は、国内では佐賀や福岡を中心とする北部九州でしか確認されておらず、甕棺墓列では頭部のない人骨が入った甕棺、貝輪をした人骨の甕棺などをレプリカで並べることにしている。
これまでに歴史公園内に復元した建物の屋根や門などの上には、稲などの穀物の霊を運んできたり、悪霊から守ってくれるシンボル(神の使い)とされていた「鳥」を据えている。
「入口ゾーン」の吉野ケ里歴史公園センターは、地元の特産品や公園のキャラクターグッズなどの販売、ミニシアター、レストランなどがあり、さまざまなサービスを提供している。
歴史公園のマスコットキャラクター兄妹の愛称は「ひみか」「やよい」で、「ひみか」は遺跡がある旧東脊振村、旧三田川町、旧神埼町の頭文字をとったほか「卑弥呼」をイメージ。「やよい」は開園5年を記念し、全国公募して命名した。
ミニシアターでは、映画「蘇る『弥生の都市』」を上映。吉野ケ里の歴史や公園ができるまでの過程、復元建物の様子などを約12分間にまとめて紹介している。
レストラン(100席)のメニューには、刺身や小鉢の「吉野ケ里御膳」、豆腐などの「弥生おぼろ膳」やステーキがメーンの「吉野ケ里の風」などがある。ほかにも吉野ケ里そうめん、ちゃんぽん、うどんなど各種あり、ご飯には古代米の赤米が入っている。
吉野ケ里歴史公園には2006年度(平成18年度)までの6年間で約320万人が来園。
開園初年度に68万1000人が訪れた後、微減傾向が続いたが、
05年度(同17年度)から再び増加に転じ、06年度は57万1000人、
07年度は63万6500人が「弥生ロマン」を体感した。
神埼市と神埼郡吉野ヶ里町にある吉野ケ里歴史公園は、市町村合併前までは神埼郡神埼町と三田川町、東脊振村の3町村にまたがっていた。
神埼市は神埼町、千代田町、脊振村が2006年(平成18年)3月20日に合併して誕生し、新市のキャッチフレーズは「自然と歴史と人が輝く未来都市」を掲げる。人口は約3万3000人。
神埼郡吉野ヶ里町は三田川町、東脊振村が06年3月1日に合併。新町のキャッチフレーズは「水、緑、そして人が輝く歴史のまち」を掲げる。人口は約1万5000人。
神埼市の紅葉の名所「九年庵」は1995年(平成7年)に国名勝に指定された。場所は吉野ケ里歴史公園から北北西に約4キロ。明治期の実業家伊丹弥太郎が9年の歳月をかけて築造した別邸と庭園で、モミジ類134本をはじめ約60種・計700本の樹木が四季を彩る。毎年、紅葉の時期に9日間、一般公開される。
隣接する仁比山神社では12年に一度の申(さる)年に、県重要無形民俗文化財の「御田舞」を奉納。13日間にわたり五穀豊穣を祈り、約1200年の伝統があるとされる。
吉野ケ里歴史公園北側の竹原、志波屋地区には、千数百年前に百済から渡来した王仁(わに)を祭る王仁(鰐)神社がある。王仁は応神天皇の招きで渡来し、漢字の手本の「千字文」と儒教の「論語」を伝えたとされる。
室町時代の豪族の城館跡を整備した「横武クリーク公園」は1993年(平成5年)に完成した。6ヘクタールの遺構を保存し、「くど造り」の民家を復元。姉川城跡や直鳥城跡を含め、市内では周囲を堀(クリーク)で囲み、農村集落が城館に発展する過程を良好に残す中世の遺跡が見られる。
江戸時代・神埼宿のはずれの「ひのはしら一里塚」は、長崎街道で唯一現存する一里塚として知られる。一里塚は街道の約4キロごとの道しるべで、「ひのはしら」という名称は櫛田神社の赤木の鳥居があったことに由来する。
日本に初めて種痘を導入した幕末の蘭学者・医学者の伊東玄朴(1800-1871年)。20歳の時に建てた旧宅(県史跡)が、紅葉の名所「九年庵」の近くにある。長崎でシーボルトに師事し、「近代医学の父」として知られる。
小説「次郎物語」作者の下村湖人(1884−1955年)の生家は、神埼市千代田町で大切に守られている。明治時代初期の建物で、保存会が修復・管理。親と子のふれあいを描いた小説は、4度の映画化のほかテレビドラマにもなった。
脊振小学校には「日本一の石門」といわれる門が立つ。1914年(大正3年)、村内有志の寄付と作業奉仕で建立され、学校裏の山から切り出された花崗岩で高さ4.6メートル、幅1.3メートル、重さは14トンと13トン。将来は中学、高校、大学も建設するという大構想の基に建てられた。
脊振山頂付近には、フランスの冒険飛行家アンドレ・ジャピー(1904-74年)の記念碑がある。1936年(昭和11年)11月、パリから東京に向かう懸賞飛行の途中で墜落。村民の必死の救出で一命を取り留め、無事に帰国した。この話は全世界にニュースとして発信された。
尾崎地区には、13世紀の蒙古(もうこ)襲来伝説にちなむ「尾崎焼」が伝わる。「尾崎人形」の鳩笛は、地元では「テテップウ」と呼ばれて親しまれている。一時期、途絶えていたが、保存会が継承・復興に取り組んでいる。地元には「蒙古屋敷」といわれる地区もある。
400年近い伝統の「神埼そうめん」は、病に倒れた諸国行脚の僧を助け、手延べそうめんの製法を伝授されたことに始まる。脊振山系の良質の水、佐賀平野の小麦、動力の水車に恵まれ、製麺業が盛んになった。
佐賀平野の風物詩である菱の実採りは、クリークで木製のたらい舟「ハンギー」を器用に操る伝統の技。下直鳥地区では組織をつくり継承している。夏のイベント「堀デーちよだ」ではハンギーの熱いレースも繰り広げられる。
菱の実はクリのような甘さで、佐賀市内でも20年近く前まで街で売り歩く姿が見られ、「ヒシヤンヨー」の売り声が響いた。
千石山(標高528メートル)中腹に自生するサザンカは、「自生の北限地帯」とされる。国天然記念物に1957年(昭和32年)に指定。約2.9ヘクタールに約2200本が自生し、晩秋から初冬にかけて真っ白な花を咲かせる。
福岡県境に近い山祇神社境内には、県天然記念物の巨木「小川内の杉」が30メートル以上の高さにそびえ立つ。「夫婦杉」とも呼ばれ、大小3株が根元でくっつき、根回りは13.5メートルにもなる。ダム建設に伴い水没するため伐採、移植、保存で揺れている。
「日本の茶栽培発祥の地」として知られるのが霊仙寺跡一帯。臨済宗の開祖栄西が1191年(建久2年)、留学先の宋(中国)から帰る際に滞在し、種子をまいたとされる。町は地元産の茶葉を使った「栄西茶」を売り出している。
吉野ケ里歴史公園のすぐ南側にある東妙寺は、鎌倉時代の創建と伝えられる。1278年(弘安元年)、「元冠」の蒙古退散を祈り、後宇田天皇の勅命を受けた唯円上人が創建。「木造聖観音立像」など国重要文化財が4点ある。
福岡県境近くの蛤岳(標高862.8メートル)山頂付近には1600年代初め、治水の神様・成富兵庫茂安が「蛤水道」を設けた。1260メートルの用水路で、福岡側に流れる川の水を佐賀側に変えて、田手川の水量を確保した。毎年5月には功績をたたえる「兵庫祭」を現地で開く。
この「蛤水道」は一方で悲話を生んだ。その中の「お万」の物語では、福岡側が水不足になり、堰(せき)を落とすために、お万という女性が選ばれた。佐賀側の警戒の厳しさに、連れてきた乳飲み子を滝(稚児落としの滝)に捨て、自らも滝(お万ケ滝)に身を投じたという。
「佐賀の七賢人」ゆかりの寺もある。1538年(天文7年)の創建と伝えられる西往寺は、大木喬任の菩提寺として知られる。豊臣秀吉の九州平定後の国分けで、一帯を領地にした元筑後の大木城主・大木知光が菩提寺とした。
松隈地区近辺から筑前(福岡)に抜ける「肥前・筑前街道―脊振坂越え」は1996年(平成8年)、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれた。修学院や霊仙寺、数々の国境石などが残っている。
旧東脊振村の村制100年を記念したモニュメントが1989年(平成元年)、佐賀平野や有明海を一望できる籾岳に造られた。モニュメントは数字の「100」を表し、数字の「1」の部分は赤色、「0」が青、黄色。夜間はライトアップされ、山中に色鮮やかな「100」が浮かび上がる。
JR吉野ケ里公園駅近くの水田では毎年、古代米「赤米」が収穫される。吉野ケ里遺跡で炭化米が出土したのをきっかけに栽培が始まり、地元住民らが管理した水田で、三田川中生徒が貫頭衣姿で田植え、収穫をしている。
1530年(享禄3年)の周防(山口)・大内軍との合戦「田手畷(なわて)の戦い」に由来するのが「赤熊(しゃぐま)太鼓」。肥前勢は赤熊の鬼面をつけ、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして戦いに勝利したとされる。赤熊太鼓は1986年(昭和61年)に復活した。
竹楽器によるオーケストラ「バンブーオーケストラ」は1996年(平成8年)、「世界ほのお博」でデビューした。地元にある竹を使い、郷土に根ざした文化活動として始まり、町内外から集まった団員が練習、演奏活動を行っている。
「卑弥呼」や巫女らも登場した松明行列などがある「吉野ヶ里ふるさと炎(ひ)まつり」は1998年(平成10年)に始まった。生活の原点である火(炎)をモチーフに開催。2004年(平成16年)から吉野ケ里歴史公園内を会場に開いている。幻想的な雰囲気に人気があり、07年は2日間で約4万7000人が訪れた。